無の日々

キモオタヒキニート生活

祖母

煙草を吸わない祖母が肺がんだと宣告されたとき、ああそうですか、わかりました、と心の中で何度も呟いた記憶がある。あの時はっきりと知覚したのは、神はいないことと命は平等であることだ。いいことをしていたら報われるだとか悪人は地獄に落ちるだとかそういう話は本当にただの洗脳じみた教訓で、実際はただ起こった事実だけが積み重なって生態を動かしている。生と死は感情を持つ我々にとってあまりにも理不尽な暴力で、意味づけをしなければ気が狂ってしまうから人間は与太話を作る。祖母は少しも煙草を吸う人ではなかった。煙草を吸っていたのは祖父だった。夜中に隠れて、小さな孫のいる部屋で煙草を吸っていた。あのとき、ほとんど無音に近くされたテレビから漏れる光を浴びた祖父の横顔をずっと覚えている。目を覚ました私に「寝なさい」と背中で言った祖父に優しさの色はなかった。こんなものか人間は、とそのときほぼ無意識のうちに感じたこともよく覚えている。
祖母はよくできた人だった。優しく、ユーモアがあり、とにかく気丈だった。そんな祖母が苦しんで死んでいった様を見てからというもの、なんだかいろんなものが作り物に見え始め、ばかばかしく感じるようになった。祖母の人生とはなんだったのだろうとおこがましいことを考える日も未だにある。
祖母の記憶でひとつ、やたらに鮮明なものがある。正月にテレビを観ていたとき、テレビから『ライオンは寝ている』が流れてきた。祖母は画面を眺め、流れてくる音に耳を澄ましながら「この曲、昔すごい流行ってたんよ」と呟いた。私は当時ライオン・キングを観たことがなかったのでその曲をまったく知らず、初めて聴いた、とだけ返した。祖母は少しだけ頬を緩めてじっとそのメロディーを聴いていた。あの時の祖母の顔が妙に寂しそうで、私はなんだか、祖母の郷愁に触れたような気持ちになった。そこに特別な思い出があったのかなかったのかは今となっては知る由もないが、祖母の人生の一片がその瞬間に表出したことは確かだと感じた。祖母は何を感じ、どう生きてきたのだろうか。少なくとも彼女は神はいないということをきっと知っていた。病に蝕まれ、痛みに耐えられなかった祖母はある日「楽にしてほしい」と母に話したそうだ。その話を聞くたびに私は、ああそうですか、と何度も繰り返す。人間は誰にも誰かを救えない。
この前久々に祖父宅を訪れると、いつもどおり祖母が遺影の中で笑っていた。私はいつも、かける言葉を探しながら仏壇に手を合わせる。